わたしは千葉で生まれて、小学1年生の終わりまで船橋という街にある団地で育った。何号棟まであっただろうか、あんなに大きな団地をそういえば東京に来てからは見かけたことがないような気がする。道路を挟んだあっちにもこっちにも敷地は続いており、あっちにもこっちにも友達が住んでいた。2年生になるとき東京に引っ越してきた。引っ越すというのがどういうことなのか、当時はよくわかっていなかったように思う。家族みんなで車に乗り込んで家具も家電もない空っぽの一軒家に着いたとき、わたしはどんな気持ちだったんだろう。手伝いに来てくれた親戚家族の子供たちと一緒になって家中走り回って遊んだことだけを覚えている。
当時のわたしは当然ながら東京という街がどういうところかなんて知る由もなく、突然放り込まれた新しい学校、新しい教室の中で身を固くして、おずおずと新しいクラスメイトたちの様子を伺っていた。あれから20年以上が経ったのだな。地元の小学校と中学校を卒業して、新宿にある高校と専門学校に通った。東京は今ではすっかり勝手知ったるわたしの故郷で、いわば家だ。実家はSANDOがある池上の駅から歩いて20分ほどの閑静な住宅街にある。特になにがあるわけでもないけど、穏やかで、どことなく品があり、住みやすい良い街だなと思う。
専門学校を卒業したあと、19から21歳のまでの2年間をアメリカNY州の小さな田舎町で過ごした。山に囲まれ、冬になれば雪に埋もれる小さな大学の寮で、生まれて初めて家を離れて暮らした。日本に戻って働くようになってからもしばらくは実家で過ごし、この何年かは世田谷のマンションに一人で住んでいた。よく出入りしていたライブハウスや飲み屋には自転車を少し走らせれば行けるようになり、近くに住む音楽仲間にもいつでも会えるようになった。近所には顔馴染みの店もでき、居心地は良かったし、こだわって探した鉄筋の部屋は夜遅くまでギターを弾いていても怒られることはなかったし、西向きの窓からはそれはそれは綺麗な夕日が見えた。その街のその部屋での暮らしをわたしはとても気に入っていた。
去年の夏から秋にかけては、奄美の加計呂麻島という小さな島にいた。丸4ヶ月東京を離れることにしたので、後ろ髪を引かれながらも世田谷のその部屋を引き払うことにした。なんていうか、そういうタイミングなのだ、という気がしていた。島では海沿いの宿に住み込み働いた。スーパーもコンビニも病院もないその島に、もうひとつ家が出来た。
そうして真っ黒に日焼けして東京に戻り、わたしは久しぶりに実家で暮らしはじめた。本当はまたすぐに部屋を見つけて引っ越すつもりだったのだけど、次に住みたい街のイメージがどうしても定まらず、ぼんやりしているうちにこんな事態になってしまったのですっかり家に居ついている。国内外問わず年中あちこちを飛び回っている姉もちょうど帰ってきており、元々実家にいた弟も含めなんと久しぶりの家族5人暮らしが展開されている(年明けまで5人と一匹だったけど、20年以上連れ添った愛猫はついに天寿を全うした。いまは庭の隅っこに眠っている)。それぞれ家にいる時間も長くなっているのでみんな揃って食卓につくことも多く、子供の頃みたいに「ごはんだよー」という声が家の中に響いたりする。こんな日々がまた来るなんて。
久しぶりに帰ってきたこの街は、少しずつ姿を変えながら、だけど変わらずにわたしの家なのだなと実感する。こんなときだからきっと余計に。
街。家族。「おかえり」と言ってもらえること。
世界中に点在する無数の小さな集合体のことを思う。そこには小さな灯りが揺れている。わたしたちの“街”はいつだってやさしい。
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