劇作家の宮沢章夫さんの著書に「よくわからないねじ」というエッセイ集がある。
昔よく好んで読んでいたのだが、誰もが素通りしてしまうような事柄を拾い上げて、それをこれまでかとこねくり回すというようなエッセイ集だったような記憶がある。
表題になっている「よくわからないねじ」というのは、机の中とかに、使用の用途のわからないねじが入っていて、それはいつか使うかもしれないという気持ちから結局捨てることができない、というようなほんとに些細な話であった気がするのだが、この審美眼というか、目の付け方がなんとも自分に合っていて、読みながらわかるわかるそうだそうだと思ったりしたのだった。
新型コロナウイルスの影響で不要不朽の外出が禁止され、家での苦痛を和らげるために掃除したり、料理したりと日々の生活水準の向上に努めていた時期を終えて、ちょっと外に出ていいよっていう期間に、それでもまだまだ遠出は怖いし、コンビニはいいだろう、スーパーもいいかなとか、近くを散歩するのはいいのかもしれないぞっていう気持ちからか、日々の近所の散歩に妙にハマったのだった。
僕が住んでいるのはいわゆる京都の町屋なのだが、街並みとしては路地や細い道が多く残っていて、自転車とかでも通らない道が結構ある。そういうところをよいしょって散歩してみる。そこには見たこともない世界が広がっているなんてことはなくて、普通に住宅が並んでいるんだけど、その住宅もよくよく見ていくと結構面白くて、一時期は自作マスクの販売所を自宅前に設置していたり、僕と同じようにステイホーム期間中に、いわゆるDIYにトライしたんだろうか。そういう手垢みたいなものがたくさん残っていて、そういうものに目がいくようになった。
家から道にはみ出した家庭菜園なんてのは、みなさんよく見かけるものだと思うし、京都だといけず石っていうのがあるくらいで、家の敷地の角を石などで守りたがる傾向があるんだけど、そういう部分にもたくさんの造作が見受けられて結構見ていて楽しいことに気付かされたのだった。
それらの中には技術や見栄えのようなものが伴わないものがたくさんあって、本人はそれでいいのかもしれないのだが、他の人から見るとそれが一体なぜそのようになったのかわからないものがたくさんあることに気付かされるのだ。もう少し何かできたんじゃないか。できなかった理由はなんだ。そうやって「よくわからないもの」によって「よくわからない状態」にさせられるのである。それはそれは具合が悪い。
それでもその「よくわからないもの」たちの背景には、きっとたくさんの人の人生が隠されているのかもしれない。そんなことを考えると街を歩くのが楽しくなる。
少し目を凝らせば世界は変わって見える。日常にも変化がある。その「よくわからないもの」たちによって少しだけ人生が豊かになったのかもしれない。そんな気持ちにさえさせてくれる。明日はどの道を歩いてみよう。そこには何があるんだろうか。