このコラムは池上のまちで参考にしたいと思った各地で活動している方から寄稿していただいたものです。
何だろう。明日は知るはずはない、って訳したタイトルに引っ張られているかもしれないが、
今のこんな世界だからこそ、明日は我が身、と思って全てに多少の緊張を感じながら生活している。
この行動は正解か不正解か。この表現は正義か悪か。「選択」を求められ従う時代に慣れたとき、自分の本当の安心はこのマスの中にしかない。のか?
しかしどうしても「思い切り」を持てなくなっているのは正直なところで、躊躇してしまうことが多くなった。
変に不自由な規制をかけてしまっている昨今、そんなことを考えながら、
それではいかん、と筆をバールに持ち変えて壁床天井を躊躇なく「解体」している最中だ。
今月から建物のリノベーションを始めた。思い切りを持てることを、始めた。
ちょうど現在のアトリエを出ることが決まり、次の候補地だった祖父の広い書斎がその現場。
解体は完成を未完成に、完全を不完全にしてしまう。
これでも元建築学生。狂ったパースを軸にスケッチし、下手な線で図面を描く、が、先に身体が動くから気づくと壁や天井を抜いている。完成図も図面もあるようで、ない。そう、未来なんて未完成。今なんてもう今じゃない。常に偶然が続いている。計画なんてできっこない。だから工程表さえ作れない。
そもそも完全、完成なんてなんだ? と。解体からは学びが多い毎日だ。
海外で過ごす時間が増えたここ1、2年。現地で制作することも増えた。
見知らぬ土地と連動したナラティブな表現は個としてイマとルーツを感じたものになる。身体を移動することで得られるこの時間を大切にしている。
そんな豊かさを覚え、今度は自分の場所でも迎え入れたくなってきた。
今作っている場所はそんなアトリエにしたいと思っている。サロンといったほうがいいか。
アーティスト・イン・レジデンスというと聞こえがいいが、そんな感じ。
昔へ戻ろうとは思ってもいないし、時代に合わせる気もしないが、
ウォーホルのThe Factoryやマッタ=クラークのFOODは街にどう寄生していたのだろうとよく考える。
繋がりすぎる時代の妙な不信、不都合な美しさなんて少なからず存在せずに、
もっとリアリティで、身体的で、情熱的な空間があったに違いない。
ここは、可能な限りノンフィルターな場所でありたい。そして起きる事象すべてが予約なしのサプライズ。こういう場所で*ワクチンは共創されて、それを僕らは社会へ向けて注射する。
小さくフラットな島での勝手な役割ー芸術の可能性を信じたい。
だからこの解体は多様な表現を迎え入れるパーティーへの下準備なのかもしれない。
「今日を生きてこそ 明日がある」
ふと、剥がさず残しておいた禅の標語が目に入る。
Tomorrow Never Knows はこう訳そう。
「今日を生きてこそ 明日がある」